私のコソダテのモットーのひとつは、from her point of view (ムスメの目線で)
それは、ムスメがとりやすいところにムスメのものがあったり、オトナの勝手でムスメが手にしたものを取りあげたりせず、ちゃんと「返してちょうだい」と手をあわせてお願いしたり、時間が許す限りムスメのペースでお散歩につきあったり、コドモジカンを大切にしてあげたり、ムスメの気持ちを尊重するということ。そのときのムスメができることを、ちゃんとわかってあげるということ。
1歳4ヶ月のムスメは、オトナがわかるようには理屈がわからないと思う。オトナからみたら、「ナニやってるの!!!」と怒りたくなることも、ムスメからしたら好奇心だったり、どうなるかの実験だったり。ムスメは、そういう体験を積んで結果のデータを増やして、人生を豊かにしていくまだまだ初期段階。
昨日と、今日と続けてお茶碗を割った。
ムスメがごはん食べた後、お茶碗を手でぽーんと飛ばして、陶器のお茶碗だったので落ちて割れた。私はこういうとき、3歳までは怒らないでおこうと思っている。
今のムスメは、木の器やプラスチックの器は落としても割れないけど、陶器のお茶碗は割れるということは、よくわかっていないんじゃないかなと思う。それから、どれが木の器で、どれが陶器の器かどうかも、よくわかっていないと思う。そして、なぜ器は割れてはいけないのかも、多分よくわかっていないのではないかと思う。陶器の器が割れたらいけないとして、プラスチックの器は、割れないなら飛ばしていいのかどうかも、わからないと思う。
そういうことがまだわからない時期に怒るのは、ムスメからしたら訳がわからないんじゃないなかぁって。だから、お茶碗が割れたのは、陶器の器でごはんをあげたワタシが悪かった、もう少し大きくなってから陶器の器にするべきだったと思うことが、ワタシ流ムスメの目線でみるということ。
そして、お茶碗が割れたということと、割れてしまったお茶碗は痛いと思っていること、割れてワタシが悲しいと思っているということは(少々大げさに)表現してみせるようにしている。
なぜ茶碗が割れたらいけないのかは、怒られるからではなく、それを大切にしている人がいるからだ、とわかるコになって欲しい。そのためにはまずワタシがムスメのことをわかってあげなきゃいけないと思う。