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2014/09/18

シリアで思ったこと

平和に関して、もう少し。

現在内戦状態で、今度アメリカが空爆を行うと言っているシリアへ行ったことがあります。8年ほど前のことです。

首都のダマスカスは、「世界一古くから人が住み続けている都市」で、バビロニア王朝、ペルシャ王国、ローマ帝国、ファーティマ朝、十字軍、オスマン帝国などの支配を受けながら栄えてきたので、街にはいろいろな文化の跡が混在しています。

オスマン帝国時代に建てられたヒジャーズ駅は、メッカまで続く(予定だった)鉄道の始発駅でした。
 
ウマイヤド・モスク

世界遺産の一部で、現存する世界最古のモスク。もとは、キリスト教の教会。イスラム教徒だけや、男性しかはいれないモスクが多い中、このモスクは布を被れば女性もはいれます。もっとモスクの近くで撮ったものや、中の写真がなくて、残念。
ローマの門

普通に人々の生活圏であるスークと溶けあって2000年もの前の遺跡がある。
多分、泊まった宿の中庭。(残念なことに、よく覚えていない。)
この中東の旅はユーラシア大陸横断の旅の一部で、インドなどを旅した後で、飛行機でエジプトにはいり、陸路でシナイ半島からヨルダン、イスラエル、シリア、レバノン、トルコと旅をしました。中東にいたのは、2006年2月から3月の1ヶ月半ほど。

停戦中とはいえ街も人も緊迫した雰囲気のエルサレム(イスラエルの首都)で、逆説的に「平和というのは、こういうピリピリした空気の中にいなくていいこと」なんだと悟ったり、2004年10月にイラクで殺された香田証生さんがイラクに発つ前に泊まっていたホテルにアンマン(ヨルダンの首都)で泊まって、宿の人から香田さんについていろいろ聞いたり、内戦の銃撃戦の跡が痛々しく残っているベイルート(レバノンの首都)でヒズボラのデモをみたり、とっても考えることが多い旅でした。

戦争や内戦やテロが日本よりも身近にある情勢で、女性が自由に行動できないイスラムの国々で、ついでにプライベートな事情で一番精神的にまいっているときでした。

旅をやめて日本に帰ろうと考えていたときに入国したシリア。出会った人は、みんなとても親切。スーク(旧市街)の中のマーケットのファラッフェルは、とびっきりおいしくて毎日食べていました。首都のダマスカスは、夜暗くなってからでも女一人でホテルの近くを歩いていても危険を感じないほど平和でした。外国人に厳しい中東の中でシリアは「ほっ」と気を抜くことができる優しい国でした。

当時シリアは「悪の枢軸」とまでは言われなかったけど、アメリカ寄りの報道でとても悪い印象の国でした。実際に行ってみたらとてもいいところで、やっぱり自分の目でみて感じるって大切だなぁとしみじみ思いました。


だから、ここ数年のシリアの状況にはとても胸が痛みます。ウマイヤド・モスクは、スークは、ローマの門は壊れていないだろうか。おいしいファラッフェルを作っていた市場の中のお店のおじさんは、元気だろうか。

これが、今のダマスカスです。 Photo Gallery
1日でも早くシリアに、中東に、世界に、平和が訪れますように。一人でも少ない被害でありますように。いつかまた私がシリアを訪れたときに、シリアの人たちの人懐っこい笑顔が見られますように。 

シリアの人たちは、ほんの数年前までこんな状況になるなんて想像もできなかったと思います。「平和」は平和なときには当たり前のことであっても、案外もろいものだったりします。「平和」は私たちが幸せに暮らしていくための、最も基本であり、とっても大切なことです。平和な国にいられることに感謝すると同時に、平和は守っていくものである、ということを忘れてはいけないと思います。一度壊れた平和は、元に戻すまでに長い年月がかかることも。

私は日本の憲法第9条を支持しています。そして、集団的自衛権は必要ないと思っています。日本が武器の輸出を解禁したことにも激しい憤りを感じます。人を殺すための武器を他の国の人たちに売りつけるなんて。この国は、この国の平和はどこへ向かっているのでしょうか。。。。




2014/09/12

日本が誇るべきもの、それは憲法九条

昨日の記事は、本来書こうと思っていたことじゃなかった。アメリカがシリア空爆するというから、その元々の原因は何だっけ?っていうところをまとめていたら、それだけで長文になってしまいました。

「テロをやめさせる方法を攻撃以外の方法で行うべきだと」締めたけど、書きたかったのはここ。じゃぁ、どういう方法が、攻撃以外でテロをやめさせる方法なのか、ということ。

アフガンで支援活動を行っている中村医師に関する新聞記事から抜粋してまとめます。

=== 以下、引用のまとめ ===

アフガニスタンで人道支援を続けるペシャワール会の現地代表で医師の中村哲氏は、1984年にパキスタンでハンセン病の治療を始め、86年からアフガニスタン難民の医療支援を本格化。2000年から、大干ばつに襲われたアフガニスタンで井戸の掘削や農業用水路の建設などに取り組んでいます。

かつて診療所を造るときライフル銃で武装集団に襲われたことがあります。備え付けの機関銃がありましたが、私たちは決して撃ち返しませんでした。殺したら殺される、報復の連鎖が始まると知っているからです。 これまで非暴力に徹し、敵をつくらないようにしてきました。政府、反政府、タリバンと立場に関係なくお付き合いできてきました。

アフガニスタンでは「憲法九条があってよかったな」と、日々思いながら暮らしています。身の危険を感じずに済むからです。 

アフガン人はヒロシマ、ナガサキのことを知っており、戦後復興を遂げた後、「平和国家」「海外に戦力を送らない国」として歩んできたイメージによって日本を尊敬しています。

九条の威力とは、そういうものだと思います。日本は軍事協力に消極的だった結果として、世界に敵をつくってこなかった。アフガンでは敵意ではなく、恩人としての意識だけが残った。それは日本のブランド力、歴史的遺産とも言うべきでしょう。

米国同時多発テロ後、米国がアフガニスタンを攻撃したことで米国は自由を与えに来たと言っているが、確かに麻薬の栽培や売春が自由に行われるようになりました。

積極的平和主義というのは、米国がアフガンでやろうとしていたことです。彼らの多くが「平和をもたらそう」とやってきましたが、人が死に、国が崩れ、破壊だけが残った。それがアフガン戦争の実態です。米国の介入でアフガンの人々の暮らしは明らかにひどくなりました。活動を長く続けていて、こんなひどい状況は初めて。昔は考えたこともありません。

近年の戦争はなるべく自国の兵隊の犠牲を出さないように、無人機で攻撃する。手段を選ばない汚い戦争です。あの仲間に加わるのかと思うと、身が汚れるような気がします。

安倍首相は行使容認を目指す集団的自衛権を「限定的なもの」と説明しますが、戦争の現実を知らない人の言葉。相手がピストルを持っていれば、ピストルで応戦する。ライフルならライフルで、機関銃なら機関銃で。ひとたび武力を使うと際限なくエスカレートしていきます。

北朝鮮の核実験や中国の挑発があると国民はヒステリックになる。政治はその隙を突いてきます。

(中略)武力によって守られたと感じたことは一度もなかった中村さんなりの「安全保障」がある。「政治グループ、部族、地域の対立関係から超然としていること。移動の際、ルートや時間帯を変え、現地の治安部隊、警察と連絡を密にし、いろいろな情報を得ておくこと。そして、地域住民との信頼関係。こちらが本当の友人だと認識されれば、地域住民は保護を惜しまない。

大事なのは、人間の犠牲を減らすための外交努力です。自分が殺されるのは嫌だから、相手も殺さない。これが普通の感覚じゃないですか。


引用元
2014年5月3日 中日新聞
2014年6月5日 神奈川新聞
2014年9月7日 西日本新聞
2014年7月6日 西日本新聞


攻撃以外でテロをやめさせる方法は、この中村医師の活動そのもの。その地の人々の生活を向上させるために労力(やお金)を使うこと。中村井医師の考える安全保障そのもの。攻撃をせず信頼関係を作り、本当の友人だと認識してもらうこと。

今、日本でもあらたな局面を迎えていると思う。「集団的自衛権」 なんて誤摩化した名称をつけても、これは他国を攻撃するための言葉。攻撃はさらなる攻撃をうみます。最大の防御は、攻撃をしないこと。そのための憲法九条を守ること。

私たちは、もっと憲法九条を誇りに思っていいと思う。攻撃すできないから外交で弱い立場になるのではなく、攻撃しないと宣言しているから強気にでれる、そういう外交をして欲しい。

2014/09/11

9月11日に願うもの、それは世界の平和。

アメリカはイラクだけでなく、シリアも空爆するかもしれない、という。というか、私は、そもそもアメリカがイラクを攻撃すること自体間違っていると思う。テロに軍隊で対抗したら、悪化するに決まってる。

なんかアメリカがイラクを攻撃していることが当たり前すぎていて、本来の理由を思い出せないから、まとめてみた。現在から時間を逆戻って、状況を整理してみよう。

アメリカが今回(2014年8月にイラク北部を)空爆したのは、先月「イスラム国」という過激派組織が勢力を広め、キリスト教系住民を虐殺したり、アメリカ大使館がある都市を侵攻しようとしていたから。結果、このイスラム国はアメリカ人ジャーナリストを公開処刑して、それでアメリカはシリアも空爆すると言ってる。(2014年9月11日現在)

この「イスラム国」はどっからでてきたのかというと、2003年のイラク後にイラク国内でさまざまなテロ活動を行い、アルカイダやその他のグループと合流や解散や統合などしてできた集団。ちなみに、アルカイダはアメリカのCIAとパキスタン軍が、(1978年の)ソ連のアフガニスタン侵攻の際に対抗させるために武装させた組織。

2003年のイラク戦争は、2011年にアメリが軍がイラクから撤退するまでの戦争。イラク戦争が始まったときは、そういえば、えええええっ、なぜイラクを攻撃するの?いいの、それで?と腑に落ちない思いをした、と思い出した。発端は、2001年9月11日の同時多発テロになるのかな? テロの後、アメリカはオサマ・ビン・ラディンが首謀として、彼をかくまっているとされたタリバンを標的にアフガンを攻撃して、タリバンはやっつけたけど、アルカイダがどっかにいってしまい、その矛先がイラク。イラクにはテロの温床組織がたくさんあるからとか、大量破壊兵器を隠しているとか、理由をこじつけてブッシュが攻撃はじめ、大量破壊兵器が見つからず、フランス、ドイツ、ロシアはアメリカがイラクを攻撃することに反対していたけど、2003年3月に米英軍が「Operation Iraqi Freedom イラク自由作戦(なんじゃ、そりゃ)」と題して空爆したのが、イラク戦争の始まり。結局その後大量破壊兵器は見つからなかったし、ブッシュの関係者が石油かインフラ化かの権利を受け取る契約を戦争前からしてたとリークがあったけど、うやむやになったまま。

イラク戦争でなくなったアメリカ軍人の数。5000人以下。(アメリカの統計サイト
イラク戦争でなくなったイラク市民の人数。推定:50万人ほど。(出典:The World Post Setpember11, 2014 直接的な死者の数は11万人ほどだど言われていたが、戦争が原因でなくなった人をカウントすると50万人くらいになるという報告)

イラク戦争は、湾岸戦争の続きとも見られる。1990年にイラクがクウェートに侵攻したことに反発して、多国籍軍という名で1991年1月にイラクを空爆したことから始まった。この時のアメリカの大統領は、イラク戦争をはじめたブッシュ大統領のパパ。(湾岸戦争時の目標だった「打倒フセイン政権」を、息子がイラク政権で倒した。パパはおまえのことを誇りに思う、と言ったかどうか)

すぐにイラクは敗戦を認め停戦となったけど、以降10年国内紛争と、(スンニ派のフセイン大統領と対立する)クルド人やシーア派の人を保護するという名目で、アメリカはたびたび攻撃していたし、厳しい経済制裁を受けた。

湾岸戦争でなくなった多国籍軍の数:1000人以下。
湾岸戦争でなくなったイラク人市民:10万人ほど。(出典;Wikipedia 湾岸戦争

湾岸戦争を勃発させたイラクが、そもそもなぜクウェートを侵略したかというと、イラン・イラク戦争で負け、困窮していたから。

イラン・イラク戦争は、1980年にはじまったイラクとイランの戦争だけど、湾岸戦争ではイラクを攻撃したアメリカは、この時は親米派だったイランのバーレビ王朝を、革命派のホメイニ師が倒したことから、このホメイニ師を倒そうとするイラクを支援。と同時に、1979年に起こったイランの「イスラム革命」が広がることを阻止しようとした狙いもある。このときに中東全体にアメリカが口と手をだしすぎたことが、その後の反米感情の元になると思われる。

それまでは、アメリカがアルカイダを作った理由となるソ連のアフガン侵攻(1979年)このあたりまでは、第二次世界大戦後の西側(アメリカ)と東側(ソ連)の冷戦だったのが、アフガン侵攻あたりから、共産圏への攻撃ではなくイスラム圏への干渉や攻撃が顕著となっていく。アメリカは「人道支援」とか「世界の警察」とか「市民の平和のために」とかいう名目で、やっているのは全く反対のこと。

他の国に干渉すると、アフガン侵攻のときに支援したアルカイダにテロを起こされたり、イランイラク戦争のときに支援したフセイン政権をイラク戦争で倒したり、フセイン政権を倒したせいで混沌となったイラクで勢力をのばしたイスラム国にアメリカ人ジャーナリストを殺されて、何にもよくなってない。倒しても倒しても、あらたな「アメリカの敵」はでてくる。それは、アメリカが攻撃をやめないから。

もちろん、アメリカからの見方だと彼らが「テロ」をやめないから、だとは思うけど、殺された人数はどちらが多い? 戦場となった地は、どこ? なぜ、彼らはテロをやめない? アメリカはもう少し学んで考え直すべきだと思う。自分たちの「正義」が、すべてにおいての正義ではない。攻撃だけが、世界を平和にするわけではない。

自分たちの国の市民をテロから守りたかったら、テロをやめさせる方法を攻撃以外の方法で行うべきだと、9月11日私は思う。



2011/09/11

911

2001年9月11日のNYの同時多発テロから10年。


2001年9月11日は、多くの人がどこで誰と何をしていたのか覚えていると聞きます。
私は東京に住んでいて、友達のうちで映画を観ていました。映画を見終わった後、テレビに切り替わったときに映ったのが、ニューヨークの2本あるはずのツインタワー(ワールドトレードセンタービル)が1本になって煙がでている映像。状況がよくわからず、「これってツインタワーみたいだけど、違うのかな?」なんて思っていたら、そのビルも崩壊してしまいました。

「え?え?え?え?ええええっ? なに?これ? 映画じゃないよね? どういうこと?」って言っている間に、テレビでは録画の映像で飛行機がツインタワーにぶつかるシーンや、1本目のタワーが崩れるシーンなどがうつされて、その時にみているのがニュースだとわかってきました。

その晩はずっと朝までニュースを観ていました。
90年代に数年間住んでいた大好きな街ニューヨークが攻撃されたという事実がショックで、1晩中寝れませんでした。

私の直接の友達で被害にあった人はいませんでしたが、友達の友達がツインタワーに飛び込んだ飛行機の中にいた、と聞きました。私がニューヨークにいた頃に住んでいた地域は、灰が積もってすごいことになっていると聞きました。たくさんのニューヨーカーが大変な中、助け合っているといういい話しも聞きました。

そうしている間に、オサマ・ビン・ラディンやアルカイダという名前と共にアフガニスタンが敵視され、攻撃がはじまり、すぐに終わると思いきや攻撃や長引いて、終わると思ったら今度はなぜだかイラクが攻撃されて、アメリカったらどうしちゃったの?と思っている間に、ブッシュが再選されて。。。



その始まりとなったあの日から、10年が経ちました。

私にとっては、この10年でいろいろなことが変わりました。
都会の生活を離れ、子供も生まれて、前よりももっと地球の環境や平和に感心を持つようになりました。

この10年、世界は、日本はどう変わったのでしょうか?

『テロとの戦い』と称してこの10年に行われた戦争でいったい
どれだけの人がなくなったのでしょうか?
これらの戦争は世界に平和をもたらしたのでしょうか? 
武力で平和は得れるものなのでしょうか? 
私たちはこれらのことから何を学ばなければならないのでしょうか? 
私は、何ができるのでしょうか。


10年後にまたこの日を振り返るときには、より平和な世界になってきた、と思えるといいなと思います。


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2011/08/09

8月9日に思うこと。 Act now for our future - Think what we can do

今年はたくさんの人が、あらためて平和について、
そして原子力について再考したのではないかと思います。

3月11日の東日本大震災。

戦争がおきた訳ではない。
でも、たくさんの人がなくなりました。


一瞬にして多くの家やこれまで造り上げてきたものがなくなりました。
そして、今でもたくさんの家族や会社や野菜や家畜たちが苦しんでいます。


日常が日常でなくなってはじめて気づく、もしくは
ありがたみがわかることもあると思います。

「平和」のすばらしさ、大切さ、ありがたさ。
人が人らしく生きるための基本的な生活が保障されている安心さ。

最近の世の中の動きは、なんだか現実とかけ離れていてよくわかりません。

アメリカの国債の上限が引き上げられたことを発端に世界中で株価が下落。
円高は進む一方だし、数字に振り回される経済。経済に引きずられる政治。
原発と66年前に長崎に落とされた原爆。
どちらも正しい知識と、まっとうな政治を行っていれば起きなかったこと?

何が正しくて、何が安全なのか。何が本当なのか。

根本的な何か、とても大切なものを私たちはどこかに置き忘れているような気がします。

いろいろな人が集まると諍いも起きるけど、
たくさんの人が集まれば1人じゃ解決できないことも解決できる。
それが、人間のすばらしいところ。

こういうときこそ、一丸となって本当に私たちに何が必要なのか、
何がいらないのか、よく考えて行動を起こさなければいけないのでは
ないでしょうか。



未来のために。



この小さな手を守るために。


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子育てスタイル『夏休み特集』に私の記事が掲載されました。

「はじめての長距離移動」飛行機編 子どもと飛行機
~予約から機内まで~ by kimama

2011/04/22

Heal The World わたしたちができること

ムスメが生まれる10日ほど前に、私の友達がベイビーシャワーをしてくれた。
その日、アメリカでマイケルジャクソンがなくなって、ベイビーシャワーでの一番の話題はマイケルだった。

私はものすごくマイケルが好きだと思ったことはないけれど、物心ついた頃からスーパースターとして常にいて、彼の曲は好き嫌いに関わらずほとんどの曲を知っていて、彼は間違いなく私が生きた時代の「スター」だった。

そのマイケル・ジャクソンは、ムスメが生まれる前に死んだ。
ムスメはマイケルが生きた時代には生まれていなかったということは、すごい「世代の違い」だなぁと、そのときに思った。

マイケル・ジャクソンを追悼して、彼の曲の中で一番好きな曲を聴こうと思った。
私がマイケル・ジャクソンの曲の中で一番好きな曲、それは

Heal the World

この曲のビデオが伝えるメッセージも大好きだし、歌詞も本当にすばらしいと思う。

ビデオ:Michael Jackson [Heal The World] Official Music Video

歌詞:マイケルの遺した言葉/Heal The World 丁寧な和訳。


ムスメが生まれてからも、何度もこの曲を聴いて、思った。どうしたら、わたしたちは、この大切な地球を今よりも素敵な場所にして、ムスメの世代に渡すことができるのだろう? これは、親になったワタシの課題でもあるし、少しではあるけど平和活動に関わり、そしてこれからも関わっていきたい者として考えなければいけないことだと思った。

そんな中、3月11日に起きた東日本大震災。地震は天災だから避けられなかったとしても、福島の原発事故は人災だと思う。「こんな巨大地震は想定外だった」と東京電力は言うけれど、その想定外の地震は起こった。地震王国と言われる日本で、そもそも「安全な原発」なんてありえたのだろうか? 50数基あるうちのたった1つじゃないかと言う人もいるかもしれない。でも、その1基がどれだけの人に被害を与え、どれだけの自然を破壊し、どれだけの食物や海の生き物を汚染したのだろう、していくのだろう?

確かに原発は大量の電気を安価につくれ、人々の暮らしを豊かにしてきたと思う。高度成長期の日本には必要だったのかもしれない。けれど、莫大な生産や消費が富の象徴な時期はもう終わったと思う。終えて欲しいと思う。

原発事故があったけれども、「原発関連の事業を主力とする路線に変更はない」といった主旨の新聞記事(「原発の必要性変わらない」日本経済新聞)を読んだ。それで始めて、原発が国内の需要だけでなく、その技術と施設を外国に売ることで莫大な利益を得ている会社があることを知った。

事故にあった原発が国内のものではなく、アメリカのGE社が作っていたもので、「この原発はコストを抑えるために設計され、大きな衝撃などに耐えれない可能性が高いリスクがあった。そのことをGE内部で告発したけれども、GE幹部とアメリカの電力会社から、『すでに全米で原発の安全性と便利性を訴えてきた効果が軌道にのっている中で、多少のリスクは仕方ない』と反対を唱えられ、GEを辞めた元社員のインタビューの記事も読んだ。「人間は原子力を完全にコントロールすることはできない。それが、原発の幻想から覚めた私の結論だ」という言葉で結ばれていた。

原発をやめて、賄える電力が大幅に減るのであれば、ひとりひとりが少しずつ節電すればいい。1つでも多くの企業がちょっとずつ節電を試みるだけでどれだけの違いがでるだろう? 電力も、資源も、モノも、気持ちも、無駄遣いをやめればいい。利益を追求して安価なものを利用するのではなく、例えば太陽光発電の方が電気代が高くなることになっても、地球に人に自然に優しいエネルギーを利用することに価値をみいだしていくことが、わたしたちが向かわなければならない次のステップなんじゃないのかな。そのためには、それは消費者も、いや消費者が変わらなければいけないということ。フェアトレードの商品を買うのと同じ理屈だよね。

起きてしまったことは変えれない。でも、起きたことから、学ぶことはできるはず。

わたしたちが、次の世代のためにできること。知ること。失敗から学ぶこと。少しでもいいから実行すること。ひとりひとりの力は微々たるものかもしれないけど、その微々たるものがたくさん集まると、きっとすごい力になるはず。



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2010/08/10

平和について(後編)

ムスメの父親と別れた一番大きな原因は、互いに
歩み寄れる生活を築けなかったからだった。あまりにも
育ってきた環境が違い過ぎた。考え方が違い過ぎた。

互いに旅している間に出会って、旅の途中で妊娠した。
彼がEUパスポートを持っているので、EU圏はどこでも
住めるし、仕事もできるので、つきあいだしたスペインで
生活をしようと家を借りて仕事を探した。

世の中はちょうどリーマンショックで、世界中が不況の
どん底に落ちているときだった。(ネットがない生活を
していたので、知らなかった。)

スペインで3ヶ月生活した後、もっていたお金がつきてしまい、
彼はイギリスへ仕事と家を探しに、私は妊娠3ヶ月だったので
日本へ帰ってきた。

何度も何度もスカイプを通じて、これからどうするのか
話し合ったけど、理想ばかり追い求めて仕事を見つけれない
彼に私はすごい不安を感じ、そのまま日本で1人で産もうかと
随分悩んだ。彼が仕事と家を見つけれない限り、ちゃんとした
ビザが降りない。そして仕事も貯金もない彼と、どうやって
赤ちゃんを育てていけるのか考えれば考える程、不安になった。

話し合いは、全く歩み寄れず、私は仕事が決まるなどの「安定」を
求め、彼は「まずは一緒になること」と譲らなかった。

結局、産まれてくる子供のことを考えて、私は妊娠8ヶ月で
観光ビザでイギリスに入国した。彼は私の観光ビザが切れる
半年以内で、今後の生活を安定させると約束した。

彼は、人間的にはものすごく個性的でおもしろい人だと思う。
ものすごく魅力的な人だし、いろんな才能もあると思う。ただ
彼自身の個性が強すぎて、まげることを知らない。妥協もしない。
遠くでみている分には、興味深い人だ!と言ってられるけど、
一緒に暮らすのは、すごく大変だった。

ましてや、私にとっては、はじめての妊娠。
これまで好き勝手してきたくせに、人生ではじめてというくらい
「守り」の体勢、考え方になっている時期だった。

お互いの主張があまりにも違いすぎるので、いつも
口喧嘩をしていた。口喧嘩をすると、彼はものすごく気が荒くなり
言葉も身振りも考え方も強くなった。私はその彼の気性の激しさに
のるように自分も声をあらたげる状況がとてもイヤで、ケンカになると
口をきかないか、友達のうちに逃げていた。ケンカをせずに状況を
改善する方法を模索しながら、言いたいことを言えずに、我慢が
爆発したらプチ家出して。。。

子供が生まれてからも、それは変わらなかった。
むしろ、子育ての見解の違いで、ケンカしたくなることは
さらに増えた。彼もいろんな仕事をトライはしたけど、
お金になることはなかった。

一度、ものすごいケンカをしたときに、私が「日本に帰る!」と
言ったら、彼が「帰るのなら、ムスメの親権はキミにはとれない
ようにする」と言われた。私たちは事実婚でイギリスでは事実婚も
結婚と同様の権利が認められている。ムスメの親権は2人とも持って
いたし彼に仕事がないことや、彼の気性の荒さなど法的に争ったら
勝つ自信はあった。あったけど、実際に外国でそんなことしたく
なかった。その大喧嘩から私は全てをあきらめて、まずは日本へ
ムスメと帰ることだけを待ち望んでいた。

半年が経ち、彼の仕事が決まったらイギリスに戻ると約束して、
私は日本に帰ってきた。数ヶ月たって、友達の仕事を手伝いは
してたけど、ビザをとれるほどの仕事ではなかったので、彼は
また私に観光ビザでイギリスに来て、と言った。

そこから、私たちの別れ話が始まった。
どうやったら、ケンカをせずに暮らしていけるのだろうか。
どうやったら、彼に私が求めていることをわかってもらえるのだろうか。
どうやったら、彼が怒った時の強い怒りのパワーを押さえることが
できるのだろうか。いつか、私は、彼を癒せるときがくるのだろうか。

彼は、アパルトヘイト政策下の南アフリカで、イギリス系の
両親の元、特権階級の家に生まれ育った。おうちは、ものすごい
お金持ちだったけど、両親は彼が小さい時に離婚。その後、彼の
お父さんは彼が中学生くらいのときに、ブラックマンデーの株の
暴落で全財産をなくし、彼は大学への進学をあきらめた。

その後、南アフリカはアパルトヘイトがなくなり、白人として
生活するのが大変になり、イギリスと南アフリカを行ったり
来たりして生活。

イギリス系白人と、オランダ系白人と、現地のアフリカ人が
それぞれ対立している歴史の中で、お金やパワーでアフリカ人を
押さえつけていた国で、植民地だったからかアフリカの習慣
からか、男性がものすごく強い文化の中で育ってきた彼。

彼の南アフリカでの話しは、平和な日本に育った
私には、びっくりするような話しばっかりだった。

彼は、私との事実婚を含め、3度の結婚と、3人の子供。
欲しがっているのは、暖かい家庭なのに、暖かい
家庭を知らないから、どうやってつくればいいのかわからない。


もしかしたら、私が彼が欲しがっている愛情溢れた家族を
彼にあげれるのかもと思っていたけど、簡単なことではなかった。

悩みに悩んで、私は日本に残ることを決めた。
「ムスメが父親と暮らせないこと」と、「父親と暮らせるが
両親はいつも口論ばかりしている」と、どちらがいいのか
考えた結果、私一人であっても、私といる方がおおらかに
愛溢れる生活をあげれると思った。

彼は、私がいい母親であることは認めてくれていたので、
最後は泣きながら、了承してくれた。彼は南アフリカに帰った。

これからムスメが大きくなって、パパに会いたいといえば、
南アフリカに会いに行こうと思う。

私はすごく、すごーーーーく、世の中が平和になることを願っている。
私自身も平和な人でありたいといつも望んでいる。

なのに、平和の一番小さな単位である自分の家族を
平和にすることができなかった。ムスメの父親である彼に、
平和で暖かい家庭をあげることができなかった。

そして、そのことはこれからもずっとムスメといる中で
考え続けていくことだと思う。世界に願う平和と、私の平和。
願い望めば、いつか叶うと信じている。



2010/08/09

平和について(中編)




これまで旅してきた国々の中で、印象に残る国はたくさんあるけれど、
平和について一番考えさせられたのは、イスラエルだと思う。

イスラエルには3週間滞在した。
停戦中とはいえ、いつ爆撃が始まるか、自爆テロがあるか、
わからないところである。特に首都のエルサレムでは、常にすっごい
マシンガンみたいな銃を肩から下げている軍人が街中にいて(しかも
銃弾はいっているらしい)、50メートル置きに頑丈な爆弾処理用の
箱が設置されており(自爆テロを試みようとする人の爆弾のはいった
リュックなどをこの箱にいれると、周りに被害を及ぼさず箱の中で
爆発するらしい)、そして、洋服屋さんにはいるにも、マクドナルドに
はいるにも、バスステーションに入るにも、セキュリティチェックが行われる。

人々は常に、周りの危険を察知できるよう辺りに目を配り、不審な
人や物がないか確認をしている。人々のそのような気が張った状態で
エルサレムの街の空気は、ぴりぴりしていた。そのような中に
身を置いて始めて、「これが『平和じゃない』っていうことなんだ」と
理解した。平和じゃない空気にふれて始めて、平和がわかった気がした。


イスラエル人の友達はみな誰かを戦争のせいで亡くしているという。
18歳になったら、男の子だけでなく女の子も軍隊に行く義務がある。
軍隊で、ガザの最前線に配置され、スナイパーになった男の子にも会った。

私は仲良い友達で、誰も「殺された」友達はいない。
自分も含めて、軍隊にいったことある友達もいない。
誰かを殺したという友達もいない。
戦争がはじまったら、徴兵されるという心配もない。

それが当たり前だと思ったけど、当たり前じゃない国もある。
イスラエル人に、日本では徴兵はどれくらいの期間なの?と
聞かれたので、日本に(自衛以外の)軍隊はないと言ったら、
すごくびっくりされた。


エルサレムでお世話になった友達の家族の家では、テレビや新聞の
政治や戦争に関する ニュースを見ない(読まない)という。 

イスラエルでは、首相が変われば政策も変わる。政策が変わると、
パレスチナとの摩擦状況も変わる。状況が変わると、 それに
反発するパレスチナ側は、軍隊を持たず発言方法もあまりないため、
テロという手段にでる。テロが起きると、 イスラエルは報復したり、
軍事力で抑え ざるをえない。それにより市民の犠牲が増える。
それに反発した市民から別の 政策を持った政治家が選ばれる。
そして また状況も変わる。。。。 その繰り返し。 


私が話したイスラエル人は、誰も戦争を望んでいなかった。
みんなが切に平和になってくれることを望んでいた。 

毎日、暗く悲しいニュースが伝えられ、 政治家の弁明や屁理屈が流される。 
このエルサレムの家族がニュースを 見ないのは「政治に無関心」だから 
ではないのだと痛感した。 

やるせない現実に心を痛めて、怒り 悲しみ、嘆くより、「無関心」に
振舞う ことで、日常をやり過ごすしかないのだ。 それが戦争が、今現実に
起きている国に住む 市民の精神状態を維持する自己 防衛なのかもしれない。 

これが、平和じゃないっていうこと。 



廃墟の街 :クネイトラ
イスラエルの後で、シリアに
行った。シリアの首都ダマス
カスから50キロ離れた場所に
あるクネイトラ。
現在、UN(国連)の管理下に
置かれたイスラエルとレバノン
国境の廃墟の街。

緑の美しい山と、雪に覆われた
山の静かでのどかに見える
自然の中にひっそりとある。 

緑の山はイスラエル。 
雪の山はレバノン。 





遠くに見えるイスラエルとレバノン
そんな複雑な立地にある
この土地は 、1974年
イスラエル軍によって破壊された。 



この無残な状況を歴史に
埋もれさせない ために、
破壊された当時のまま、
そっくり街が残されていて、
戦争の残酷さをむざむざと
思いしらされるところだった。 

シリアを一度訪れた人は、
イスラエル入国で大変とか、
逆もしかりで、イスラエルに
行った形跡がパスポートに
ある人はシリアに入れないって
知ってはいたけど(私は
パスポートにスタンプをおさないでもらった。
そういう配慮は国境でしてもらえる)、クネイトラを
訪れてようやくそれがなぜなのか本当にわかった気がした。 


廃墟の街は今では花が咲き、緑がいっぱいで小鳥が平和そうに
さえずっていて、余計に物悲しかった。 







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2010/08/07

平和について(前編)

ぼくの大好きな街、広島。緑いっぱいの美しい街です。65年前の8月6日、午前8時15分。人類史上初めて、原子爆弾が広島に落とされました。

一瞬のうちに奪われた尊い命。変わりはてた家族の姿。原子爆弾は人々が築きあげた歴史や文化をも壊し、広島の街を何もかも真っ黒にしてしまったのです。

しかし、焼け野原の中で、アオギリやニワウルシの木は、緑の芽を出しました。人々も、街の復興を信じて、希望という種をこの地に蒔きました。傷つきながらも力いっぱい生き、広島の街をよみがえらせてくださった多くの方々に、ぼくたちは深く感謝します。

今、世界は、深刻な問題を抱えています。紛争や貧困のために笑顔を失った子どもたちもたくさんいます。私たちの身近でも、いじめや暴力など、悲しい出来事が起こっています。これらの問題を解決しない限り、私たちの地球に明るい未来はありません。

どうしたら争いがなくなるのでしょうか。どうしたらみんなが笑顔になれるのでしょうか。ヒロシマに生きるぼくたちの使命は、過去の悲劇から学んだことを、世界中の人々に伝えていくことです。悲しい過去を変えることはできません。しかし、過去を学び、強い願いをもって、一人一人が行動すれば、未来を平和に導くことができるはずです。

次は、ぼくたちの番です。この地球を笑顔でいっぱいにするために、ヒロシマの願いを、世界へ、未来へ、伝えていくことを誓います。


平成22年(2010年)8月6日
 こども代表
  広島市立袋町小学校6年 高松樹南
  広島市立古田台小学校6年 横林和宏


(表記は原文のまま)


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いつも、広島の原爆忌のこどもたちによる『平和の誓い』には、はっとさせられます。


すごく心に残っているのは、平成19年度の『平和の誓い』



今、テレビや新聞は、絶えることない戦争が、世界中で多くの命を奪い、今日一日生きていけるか、一日一食食べられるか、そんな状況の子どもたちをつくり出していることを伝えています。

そして、私たちの身近なところでは、いじめや争いが多くの人の心や体を壊しています。嫌なことをされたら相手に仕返しをしたい、そんな気持ちは誰にでもあります。でも、自分の受けた苦しみや悲しみを他人にまたぶつけても、何も生まれません。同じことがいつまでも続くだけです。

平和な世界をつくるためには、「憎しみ」や「悲しみ」の連鎖を、自分のところで断ち切る強さと優しさが必要です。そして、文化や歴史の違いを超えて、お互いを認め合い、相手の気持ちや考えを「知ること」が大切です。



これまでの『平和の誓い』




最近、乳児や幼児への虐待や、ネグレクトが問題になっています。
虐待やネグレクトをやってしまう人は、その親に同じように虐待や
ネグレクトされていたケースが多いといいますが、広島の子供たちが
いうように「自分の受けた苦しみや悲しみを他人にまたぶつけても
何も生まれません。同じことがいつまでも続くだけです。」


私は、私ができる「平和への第一歩」は、まず自分が平和になることだと
思っています。自分が平和になって始めて、周りの人を平和にできる。
そういう人が少しずつでも増えていけば、一人一人の力は小さくとも
集まれば大きな力になります。


平和なときには、平和の大切さは、あまり実感できません。
頭ではわかっているけれど、当たり前すぎて感謝し忘れるのだと思います。


旧ユーゴスラビアの戦争は、15年ほど前に近代のヨーロッパで起こった戦争です。
それまで違う人種、違う宗教観の人たちが同じところで仲良く暮らしていたのに、
ある日を境に、人種や言葉や宗教が違うもの同士が怒りをぶつけ合いだしました。


怒りはどんどん連鎖して、人々を奮起させ、戦争にまでなりました。
私が訪れたボスニア・ヘルツェゴビナの小さな村では、自分の家族を殺したのが、
村の誰かわかっているそうです。そして、その隣人と今でも小さな村で共に暮らして
います。その隣人に怒りを感じないといえば、ウソになるのかもしれませんが、
許すことにしているそうです。許さないと、日々の生活をやっていけないのだそうです。


家族を殺された仕返しをしたら、その隣人の家族にまた仕返しをされ、さらに
仕返しの仕返しを、、、と永遠に繰り返したのが、戦時中だったそうです。
怒りの連鎖からは何も生まれない。残ったのは悲しみと多くの犠牲。





今年の『平和への誓い』で、子供たちは、起きてしまった過去は変えれないけど、
「強い願いをもって一人一人が行動すれば、未来を平和に導くことができるはず」だと
訴えています。この子供たちの未来、私の子供の未来が、平和でありますように。
そして、平和な世界に少しでも近づけるように、私も強い願いをもって行動できますように。



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