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2011/03/20

へこみます・・・プロポーズその後

地震があった日、突然南アフリカのムスメパパから電話があった。話すのは、数ヶ月もしかしたら1年ぶりくらいかもしれない。私とムスメを心配して電話してきたって、それは嬉しいこと。それから毎日電話や長いメールがやってきて、過去をむしかえし別れたのは私のせいだと私を責め、でもやっぱりキミを愛しているからまた「家族」になろう、結婚してイギリスに住もう、でも最初は配偶者ビザはとれないから観光ビザでくればいい、などなどなどと、勝手に一方的なプロポーズ。

彼と別れた大きな理由の1つが、生活能力がないから。そして、もう1つの大きな理由が、この彼の一方的で自己中心的なところ。彼と一緒にいたとき、とっても窮屈だった。自分がとっても小さくなった気がした。私が私じゃないようだった。彼の私にたいしての感情は、愛情ではなく「支配」のようだと思った。生まれたばかりのムスメに対しても同様だった。

今回の彼からの提案に、「(経済的にも精神的にも)不安定な状況でムスメを育てたくないので、状況が安定したら考えるね。」と返答したら、それからさらに長いメールが何通も何通もやってきて、私をけなしたり、脅したり、同じこともまた延々と繰り返したり。返事を「1」したら、「10」になってかえってくるので、数日返事をしなかったら、どんどん感情が爆発していくメールがやってきて、最後は私が彼にお願いしているたった1つのこと、ムスメのイギリスのパスポートを申請するための書類なんか、絶対に送らない!って。すごくネガティブな感情でいっぱいの長いメールを何通も読んで、言われる謂れのない文句を読んで、ムスメのためにお願いしていることを拒否されて・・・へこみます。

被災地で大変な思いをしている方がたくさんいるなか、こんなことでへこんでいることにも・・・へこみます。

2011/03/16

地震のニュースで南アフリカからのプロポーズ

私の住むところでは、震災の影響はほとんどないので、いつもとあまり変わりません。おうちがあって、家族がいて、食べるものがある。朝起きて、おうちのことして、児童館に行って、仲良しのお友達と遊んで、ごはんを食べて。こういういつもと一緒の日常が、どんなに幸せなことかとあらためて感じています。

私たちを心配したり日本を応援するメッセージを、いろんな国の友達から毎日もらいます。

そして、現在南アフリカにいるムスメパパからも震災以来毎日電話やメールがきています。南アフリカでも毎日、日本の震災のニュースをやっていて、もし私とムスメが震災に巻き込まれて怪我したり、最悪死んでしまったら、なんていう思いが頭をめぐって、怖くなって、いろんな思いが交差して。。。

そして、「やっぱりキミを愛してる! 結婚してくれ!」ですって。

気持ちは嬉しいですが、彼と別れた大きな理由の1つが、生活能力がないから。今も彼は住むところも、仕事も、貯金もありません。不安定な状況でムスメを育てたくないので、状況が安定したら考えるね、と返答したら、「キミは愛よりお金の方が大切なのか? もういい!」 

復縁はありません。。。




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2010/09/14

妊娠初期 #2 : ムスメパパごはん

スペインで2人で生活をし始めたときは、仕事もしていなかったし、娯楽もないし、車もないし、友達も少なかったので、私たちはすごく時間がありました。生活費は、私の旅の資金を使っていたのだけど、なんとかするという彼の言葉を信じて、のらりくらりと過ごしていました。

その頃、ムスメパパは、よくごはんを作ってくれてました。
私は(当時)ベジタリアンで、あっさりしたものが好き。
彼はお肉大好きでこってりクリーミィなものが好き。
で、2人で食べる物は、お野菜でこってりクリーミィなものとなっていました。

こってりしたものは、ものすごく凝って作って、すごく上手でした。
今日はその一部をご紹介。

まずは、私が一番好きだったメニュー。

Prawn Bisque(テナガエビのビスク)

彼が、故郷(南アフリカのダーバン)に帰ったら、絶対に行くレストランで、絶対食べるメニュー。そこのシェフに作り方を教わったのだそうです。

作るのには、1日以上かかります。お野菜と海老を一晩じっくりゆっくり煮たら、漉して、少しずつクリームをたしていきます。クリームをいれたら、弱火でずっとかき混ぜていなければいけません。
これは、バターナッツスープ。食べたことないと言ったら、信じられない!と言って作ってくれました。バターナッツというお野菜自体食べたことない気がする。今、調べてみたら、ニホンカボチャ(ひょうたん形の黄色い冬カボチャ)と、言うんですって。
これも定番でした。その名も、Midnight pancakes (真夜中のクレープ) 名前の通り、真夜中(12時過ぎ)にしか作ってくれません。こんな甘いもの食べちゃいけな〜〜〜〜〜い、っていう時間なのに、わんさか作ってくれます。最高で2人で13枚平らげたこともあります。写真は、キャラメライズされたバナナが中央においてあります。昼間に作ってと頼んでも作ってくれません。

この不思議なものは、モロッコ風チキン。ゲストを招いてディナーのときに、彼がはりきって作りました。チキンまるまる1羽、塩と小麦粉で包み、低温で長い時間オーブンで焼きます。塩釜焼きみたいなもので、うまみがぎゅっと詰まっています。金槌で割ってあけると、チキンはとろっとろでした。

写真はちょっとボケていますが、モロッコ風チキン。

つけあわせは、ほうれん草とフェタチーズのクリーム煮と、トマトとポテトのグラタン(だったかなぁ?)
これは、デザートを作っているところです。
完成。ものすごく甘いレモンメレンゲクリームパイでした。死ぬ程甘かったけど、ほとんど全部彼が食べました。
これは、トマトソースのお野菜パスタかな?
きましたぁ!!!! ミッドナイト・パンケーキを作っているところ。卵と牛乳と小麦粉だけで(もしかしたら、ひとつまみの塩)、生地のゆるさをみて分量を調整しているようでした。
パンケーキ(クレープ)と一緒に。レモン汁+シュガー。キャラメル(練乳で作ります)、バターやジャムや蜂蜜。果物を砂糖と一緒に炒めてキャラメライズしたものなど。好きなものを好きなだけいれて、食べます。

子供には砂糖とかを夜中に食べさせたくないと私が言っても、彼は気にせず好きなだけ食べさせるタイプだと思います。
これはお食事クレープ。お野菜にクリームソースや、ほうれん草ソースをかけて、チーズたっぷり。トマトソースどっぷりで、オーブンで焼きます。彼のお料理は、むちゃくちゃカロリー高いと思います。でも、彼は痩せてました。
これは、試しに作ってみたピザ。ピザ用の小麦粉を買ってきて、こねて作りました。てづくり〜〜〜〜な感じの味でした。
ピザを食べているところ。


もう2年も前のことになるんだなぁ。なんだか、遠い昔のことのように懐かしいです。短い間だったけど、彼と一緒にいた時間は、いい思い出として心に残していたいなぁと思っています。

つづき:妊娠初期 #3 妖精の夢と妊娠とふたごちゃん

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2010/08/10

平和について(後編)

ムスメの父親と別れた一番大きな原因は、互いに
歩み寄れる生活を築けなかったからだった。あまりにも
育ってきた環境が違い過ぎた。考え方が違い過ぎた。

互いに旅している間に出会って、旅の途中で妊娠した。
彼がEUパスポートを持っているので、EU圏はどこでも
住めるし、仕事もできるので、つきあいだしたスペインで
生活をしようと家を借りて仕事を探した。

世の中はちょうどリーマンショックで、世界中が不況の
どん底に落ちているときだった。(ネットがない生活を
していたので、知らなかった。)

スペインで3ヶ月生活した後、もっていたお金がつきてしまい、
彼はイギリスへ仕事と家を探しに、私は妊娠3ヶ月だったので
日本へ帰ってきた。

何度も何度もスカイプを通じて、これからどうするのか
話し合ったけど、理想ばかり追い求めて仕事を見つけれない
彼に私はすごい不安を感じ、そのまま日本で1人で産もうかと
随分悩んだ。彼が仕事と家を見つけれない限り、ちゃんとした
ビザが降りない。そして仕事も貯金もない彼と、どうやって
赤ちゃんを育てていけるのか考えれば考える程、不安になった。

話し合いは、全く歩み寄れず、私は仕事が決まるなどの「安定」を
求め、彼は「まずは一緒になること」と譲らなかった。

結局、産まれてくる子供のことを考えて、私は妊娠8ヶ月で
観光ビザでイギリスに入国した。彼は私の観光ビザが切れる
半年以内で、今後の生活を安定させると約束した。

彼は、人間的にはものすごく個性的でおもしろい人だと思う。
ものすごく魅力的な人だし、いろんな才能もあると思う。ただ
彼自身の個性が強すぎて、まげることを知らない。妥協もしない。
遠くでみている分には、興味深い人だ!と言ってられるけど、
一緒に暮らすのは、すごく大変だった。

ましてや、私にとっては、はじめての妊娠。
これまで好き勝手してきたくせに、人生ではじめてというくらい
「守り」の体勢、考え方になっている時期だった。

お互いの主張があまりにも違いすぎるので、いつも
口喧嘩をしていた。口喧嘩をすると、彼はものすごく気が荒くなり
言葉も身振りも考え方も強くなった。私はその彼の気性の激しさに
のるように自分も声をあらたげる状況がとてもイヤで、ケンカになると
口をきかないか、友達のうちに逃げていた。ケンカをせずに状況を
改善する方法を模索しながら、言いたいことを言えずに、我慢が
爆発したらプチ家出して。。。

子供が生まれてからも、それは変わらなかった。
むしろ、子育ての見解の違いで、ケンカしたくなることは
さらに増えた。彼もいろんな仕事をトライはしたけど、
お金になることはなかった。

一度、ものすごいケンカをしたときに、私が「日本に帰る!」と
言ったら、彼が「帰るのなら、ムスメの親権はキミにはとれない
ようにする」と言われた。私たちは事実婚でイギリスでは事実婚も
結婚と同様の権利が認められている。ムスメの親権は2人とも持って
いたし彼に仕事がないことや、彼の気性の荒さなど法的に争ったら
勝つ自信はあった。あったけど、実際に外国でそんなことしたく
なかった。その大喧嘩から私は全てをあきらめて、まずは日本へ
ムスメと帰ることだけを待ち望んでいた。

半年が経ち、彼の仕事が決まったらイギリスに戻ると約束して、
私は日本に帰ってきた。数ヶ月たって、友達の仕事を手伝いは
してたけど、ビザをとれるほどの仕事ではなかったので、彼は
また私に観光ビザでイギリスに来て、と言った。

そこから、私たちの別れ話が始まった。
どうやったら、ケンカをせずに暮らしていけるのだろうか。
どうやったら、彼に私が求めていることをわかってもらえるのだろうか。
どうやったら、彼が怒った時の強い怒りのパワーを押さえることが
できるのだろうか。いつか、私は、彼を癒せるときがくるのだろうか。

彼は、アパルトヘイト政策下の南アフリカで、イギリス系の
両親の元、特権階級の家に生まれ育った。おうちは、ものすごい
お金持ちだったけど、両親は彼が小さい時に離婚。その後、彼の
お父さんは彼が中学生くらいのときに、ブラックマンデーの株の
暴落で全財産をなくし、彼は大学への進学をあきらめた。

その後、南アフリカはアパルトヘイトがなくなり、白人として
生活するのが大変になり、イギリスと南アフリカを行ったり
来たりして生活。

イギリス系白人と、オランダ系白人と、現地のアフリカ人が
それぞれ対立している歴史の中で、お金やパワーでアフリカ人を
押さえつけていた国で、植民地だったからかアフリカの習慣
からか、男性がものすごく強い文化の中で育ってきた彼。

彼の南アフリカでの話しは、平和な日本に育った
私には、びっくりするような話しばっかりだった。

彼は、私との事実婚を含め、3度の結婚と、3人の子供。
欲しがっているのは、暖かい家庭なのに、暖かい
家庭を知らないから、どうやってつくればいいのかわからない。


もしかしたら、私が彼が欲しがっている愛情溢れた家族を
彼にあげれるのかもと思っていたけど、簡単なことではなかった。

悩みに悩んで、私は日本に残ることを決めた。
「ムスメが父親と暮らせないこと」と、「父親と暮らせるが
両親はいつも口論ばかりしている」と、どちらがいいのか
考えた結果、私一人であっても、私といる方がおおらかに
愛溢れる生活をあげれると思った。

彼は、私がいい母親であることは認めてくれていたので、
最後は泣きながら、了承してくれた。彼は南アフリカに帰った。

これからムスメが大きくなって、パパに会いたいといえば、
南アフリカに会いに行こうと思う。

私はすごく、すごーーーーく、世の中が平和になることを願っている。
私自身も平和な人でありたいといつも望んでいる。

なのに、平和の一番小さな単位である自分の家族を
平和にすることができなかった。ムスメの父親である彼に、
平和で暖かい家庭をあげることができなかった。

そして、そのことはこれからもずっとムスメといる中で
考え続けていくことだと思う。世界に願う平和と、私の平和。
願い望めば、いつか叶うと信じている。